【更に詳しく、香北町の歴史】#78 

前回は香北町の昔ばなしについて書きましたが、今回は歴史について書こうと思います。

私の地元は大阪の八尾市という所になります。
八尾市と言えば物部氏の拠点で、曽我氏に敗れた物部守屋のお墓があります。
そして香美市に流れる一番大きな川の名前は物部川です。
何か関係があるのでは?と調べてみました。
全部書いてしまうと、めちゃくちゃ長いので、橋追って書かせて頂きます。

高知県香美市、物部川の中流域に広がる香北町、ここはアンパンマンミュージアムがある「現代の夢」の場所であると同時に、日本の建国に関わる古代の謎が色濃く残る場所です。
それと共に平家の落人が紡いだ悲劇のロマンが交差する場所でもあります。

大阪・八尾から土佐へ「物部氏」が拓いた川の記憶

香北町を流れる「物部川」。この名の由来は、古代日本の軍事・祭祀を司った名門氏族「物部氏」にあると考えられています。
香北町と八尾市は歴史の深い糸で結ばれています。八尾市は物部氏の本拠地。かつて中央の権力争いで曽我氏に敗れた物部氏の一部や、その高度な技術集団(部民)が、この物部川流域に流れて移住したという話があります。


・美良布(びらふ)のルーツ:中心地の「美良布」は、物部氏・三野氏直属の技術集団「美良布部(びらふべ)」から名付けられたと言われています。


・第十代崇神天皇との縁:物部氏の血を引く崇神天皇の時代、この地には中央の祭祀や軍事の要である物部と三野が祖である「美良布部」の組織が流入した。
崇神天皇の時代に疫病が流行した際、奈良の三輪山の神様、大物主神の子孫である太田田根子命に神を祀らせたところ、病が治まり国が平和になったという伝説があります。


八尾にも大田田根子命を祀った、御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)という神社があり、「古事記」に登場する「河内の美努村(みののむら)」の伝承地とされ、縁が深い場所です。具体的に言うと、崇神天皇が奈良の都で疫病が流行した時に、三輪神社の神様の子孫である大田田根子を探して、祀らせよと命じて、大田田根子が美努村で見つかったというか、住んでた場所だったそうです。
因みにこの神社は通称「上之島神社(かみのしまじんじゃ)と呼ばれ、私は小学生の頃ここでよく遊びました

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事の始まり

四世紀前半(治世62年)、崇神天皇は全国に人を派遣し、大和王朝の統一拡大の為、ここ美良布へは、三野の小録(おろく)と物部の大母(おおも)二人が派遣されました。その後、三野氏と物部氏の人々が流入しました。軍事・武器製造・警察機能を司る物部氏と祭祀・技術・生産を司る三野氏が大阪の難波津から船に乗り、室戸岬を経由して物部川河口から美良布へと向かった。

美良布地名の由来

美良布の地名の由来は諸説ありますが、その一つとして三野氏の拠点である美努村(みのむら)が転じて美良布になった説があります。

流入後

美努村(現在の八尾市)には旧大和川(現在の玉串川)が流れていました。
当時は川の氾濫なども多く、それを三野一族の技術によって防ぎました。
美良布に来た時の物部川も荒れており、三野氏の技術によって整備され、用水路を作り作物豊かな土地にしました。美良布の土地が美努村と非常に似ていたようです。
流入後は、物部氏の技術で鉄の斧などで山を切り開き、砂鉄を取り、切った木材から木炭を作り、鉄器の製造を行いました。
最初はよそ者である三野氏、物部氏を遠巻きで見ていたものの、この高度な技術と神のチカラ(銅鏡)のチカラを借り、徐々に民に受け入れられるようになっていきました。


崇神天皇のとの血縁関係のある物部氏が美良布に移り住んだことによって、大川上神社の総鎮守が大田田根子命になるのも、ガテンの行く話である。
物部氏は祭祀も司り、山岳信仰とも縁が深く四方山に囲まれたこの地はうってつけの場所であると考えてもおかしくない。そしてその信仰と陰陽道がうまく重なり合ってできたと言われるのが、物部町の「いざなぎ流」である。

まとめ

第十代崇神天皇:物部氏と血縁関係。奈良の都で疫病が流行時、大神主が夢枕に現れ「大田田根子」を探し、我を祀らせろと命じた。

三野氏:物部氏と隣接する氏族。八尾市の上之島周辺。後に小録を土佐へ派遣。

物部氏:古代国家の軍事・技術・司祭を司る氏族。後に大母を土佐へ派遣。

大田田根子:三野氏の拠点、美努村で住んでいた。大神主の子孫。崇神天皇の命で「大神主」を祀り病を治めた。

美良布:美努村の名が転じて美良布。三野氏と物部氏により、神のチカラと高い技術で大いに発展。

大川上美良布神社:大田田根子を総鎮守とした高知でも一番古い神社と言われる由緒正しい神社。

物部川:物部氏に由来する。香北町の奥にある旧物部村には物部氏の信仰のひとつである山岳崇拝と陰陽道が混ざり合い「イザナギ流」が生まれる。



山奥に眠る悲劇の幼帝「安徳天皇伝説」

香北町の歴史に欠かせないのが、第八十一代安徳天皇にまつわる生存伝説です。
正直に言ってこれは眉唾物です。これから書く説は色々なところで同じような話があります。
教科書では「壇ノ浦で入水した」とされる幼き天皇ですが、香北町には「家臣に守られ、密かにこの地逃げ延びた」という伝承が色濃く残っています。


・御在所山(ございしょやま):天皇の陸墓とされる場所や、家臣を祀る塚が点在する聖地。


・日ノ御子(ひのみこ):天皇が一時を過ごし、御子が生まれたという場所。天皇=「日」の御子。

なぜこれほどまでに伝説がのこったのか?それは物部氏が拓いた険しくも豊かな山々が、敗れし者たちを優しく包み隠す「隠れ里」として機能したからかもしれません。

現代に続く「鉄のDNA」土佐打刃物の誇り

物部氏がこの地に持ち込んだ最大のギフト、それは「鉄を操る技術」でした。
古代、軍事集団だった物部氏は武器を作るための鍛冶技術と、素材となる砂鉄・木炭の管理に長けていました。


・武器から農具へ:戦国・江戸時代を経て、その技術は山を切り拓くための「土佐打刃物」へと形を変えました。その後、時を経て農具や包丁へと進化して、その技術は今へと繋がっています。


・美良布の至宝:大川上美良布神社に伝わる「平安時代の銅鐸」は、この地が古くから金属工芸の拠点だった証です。

現在、私たちが手にする鋭い土佐の包丁。そのひと振りの影には古代の物部氏から受け継がれた職人の魂が宿っているのです。

八尾市の物部氏と香美市の物部氏のその後

八尾市に残った物部氏の一族は弓削(ゆげ)という姓を名乗り、今現在も存在します。因みに弓削氏と言えば、弓削道鏡が有名です。法相宗の僧侶にして天皇になろうと野望を抱き、失敗に終わった人物です。今でも弓削氏の拠点辺りでは発掘作業が続いています。

香美市に残った物部氏は美良布部となり、その後、姓を別役(べっちゃく)と名乗り、今現在も存在してします。一般の人たちとは別の役目をする人からそう呼ばれるようになったようです。

香北町を訪れたらオススメしたい歴史スポット

・大川上美良布神社:物部氏の部民が守ってきた、地域の総鎮守。繊細な社殿の彫刻は必見です。


・御在所山:安徳天皇が静かに眠るとされる山。登山道には歴史の軌跡が今も残っています。


・やなせたかし記念館周辺:現在の文化である「やなせたかし記念館」と古代の文化に繋がる「大川上美良布神社」がすぐ側にあるというのも、とても感慨深い物だと思います。


華やかな中央の歴史の裏側で、敗れた者たちが技術を繋ぎ、信仰を守り、静かに暮らした町、香北町。物部川のせせらぎを聞きながらこの町を歩くと、八尾から来た古代人の足音や、幼き天皇を支えた家臣たちの祈りが聞こえてくるようです。
そして今現在、大阪出身の人も大阪の八尾市より、高知県香美市の香北町に移り住んでいます。
なかなかに面白い事であるなと思います。


ということで、今回は香北町の歴史に八尾市が潜んでいたお話を書かせてもらいました。
あくまでもロマンの話で合って、実際の所本当の話なのかは分かりません。
単なる都市伝説に近い内容なのかもしれません。
ただそれを信じている人が存在しているというのが、素晴らしい事だなと思います。


今回はこの辺でドロンします。




スタッフ 大阪出身の人





ほな!


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